今年のチャレンジ曲は
「TicoTico no fuba(通称:ティコティコ)」
ブラジルの音楽で、少しスピードのある楽しい曲です。
【曲について】
1917年作曲 ゼキーニャ・アブレウ作曲 ショーロと呼ばれる曲の形式でかかれていたサンバリズム ブラジルのポピュラー音楽(ショーロ:Choro).
原題は『Tico-Tico no Fuba』で、小鳥(Tico-Tico)がエサである穀物の粉(Fuba)をついばむ様子を描いた、軽快でユーモラスなナンバーです。ディズニーのアニメ映画「ラテン・アメリカの旅」で使用された他、1947年の映画「コパカバーナ」でサンバ歌手のカルメン・ミランダが歌い、世界的に大ヒットしました。
【Epsode】
【作曲者情報】
ゼキーニャ・ジ・アブレウ
Zequinha de Abreuについて
ゼキーニャ・ジ・アブレウ Zequinha de Abreu(ゼキーニャは愛称で、本名はジョゼ・ゴメス・ジ・アブレウ José Gomes de Abreu という)は、1880年9月19日にサンパウロ州サンタ・ヒッタ・ド・パッサ・クワトロ Santa Rita do Passa Quatro に生まれた。5歳より音楽を習った彼は、10歳の頃にはフルートやクラリネットを吹き、作曲もしていたと。14歳から16歳まではサンパウロの神学校に通った。ゼキーニャの父は彼を医者に、母は彼を神父にしたかったらしいが、ゼキーニャは音楽の勉強を続け、17歳の時にはOrquestra Smartという楽団を指揮して地元のコンサートや結婚式、映画館などで演奏をしていた。
1899年5月に、4歳年下のDurvalina Pires Brasilと結婚、8人の子供をもうけた。生計を立てるため一時は父の経営する薬局を手伝ったり小学校の教師をしたり、また市役所や税務署の職員として働いたりした。
父の死後、1920年に彼はサンパウロに移り住んだ。サンパウロではバンドを率いて演奏活動を活発に行った。またベートーヴェン社 Casa Beethoven というピアノ販売店でピアノを弾く仕事もした。1924年には楽譜出版社のヴィセンチ・ヴィターリ氏(現在のイルマォンス・ヴィターリ Irmãos Vitale社)と知り合い、《ブランカ Branca》を出版。その後は、同社のため毎月一作は作曲をしていく長期契約を結んだ。これによりゼキーニャ・ジ・アブレウの作品は有名になり、ヴィターリ社との関係はゼキーニャ・ジ・アブレウの生涯続いた。ヴィセンチ・ヴィターリは「ゼキーニャは出版社の大成功になくてはならない存在だ」ったと語っていたとのこと。
1933年にはゼキーニャ・ジ・アブレウ楽団を設立している。
1935年1月22日、ゼキーニャ・ジ・アブレウは54歳でサンパウロにて亡くなった。彼の死から17年後、サンパウロの ヴェラクルーズ社により彼の伝記映画《チコ・チコ・ノ・フバー Tico-tico no fubá》が製作された(但しこの映画では、ゼキーニャ・ジ・アブレウが “Branca” という名の女性に恋心を抱いて《Branca》という曲を作った風に描かれているが、実際はゼキーニャが《Branca》を献呈した時、 “Branca” はまだ8〜9歳の子供である)。
ゼキーニャ・ジ・アブレウは多作家でタンゴ、マシーシ、ワルツ、マーチ、フォックストロットなど、いわゆるショーロのジャンルに属する約120曲の小品が残されている。出版された彼の楽譜を見ると、多くはピアノ独奏でなく、歌詞付きのピアノ譜である。ゼキーニャ・ジ・アブレウはほぼ毎月一曲、大抵は歌詞なしのピアノ譜をイルマォンス・ヴィターリ社に渡し、出版社は作詞家に歌詞の後付けを依頼し、それで楽譜が出版されたらしい。また彼はピアニストではなく、10人程度から成る楽団の指揮者で、自作を楽団で演奏していたが、楽団用のフルスコアのままでは一般家庭向けに楽譜が売れる筈もなく、楽譜の一般受けを狙って歌詞付きのピアノ譜として販売したものと思われる。ということで彼の作品の多くは歌曲であって、またピアノ曲のようにも思える(当時の彼の作品の出版譜では全て、歌詞はピアノ譜の旋律の上または欄外に記されていて、楽譜上に旋律のみのパートは無い)。何曲も彼の作品を聴いていると、ワンパターンの傾向が無きにしも非ずですが、タンゴやマシーシは浮き浮き、ワルツはしっとりといった感じで、ワンパターンが何だ!楽しく歌って踊れりゃいいじゃない!という陽気な姿勢が伝わってきます。
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